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現代アートは何でもありなのか?

現代アートには絵や写真などの平面作品もあるし彫刻や立体などの立体作品もあるし最近では映像やデジタルの物や空間芸術であるインスタレーションやライブ性を持つハプニング・イベント系の物やランドスケープ型の環境的なものや作品自体が重要でないコンセプトのみの宣言型のもの等があり、素材に至っては古典的な絵具や彫刻素材に限らず作者の数だけ使われる素材は多種多様で、作品の規格とでも言うべき作品の方向性・性質・性格は二十世紀以前までかつて行われていた美術運動の様に統一されておらず混沌を極めている様に見える(時代を経ればカテゴライズされるとしても)。しかも未だその拡がりが収まる気配も無く。

これらの様相を見ると確かに現代アートは何でもありの様に見える。しかし何でもありとは半分正解で半分間違っている。広義で見れば現代作られているアート作品があまねく現代アートであると定義や区分する事も出来る(古典的な作風やコンセプトで無ければ)。しかし西洋や専門の人たちの間で言われる狭義での現代アートとは美術の歴史の文脈(コンテクスト)の流れに沿いつつ(前段階として踏まえつつ)その文脈を新たに更新(どちらかと言えば継続というより破壊という意味での)する作品およびコンセプトであると定義付けされたものという意味合いを持つ。文脈を更新する為には新しく且つ同時に過去からの文脈の更新に適う作品を作らなければならなく過去の作品を逸脱しなければならない宿命を持つので文脈の更新に挑戦する作品は成功失敗含めて規格外の何でもありな事をしている玉石混交の様に見えてしまう。

自分はその決定する側の人間では無いので内情は詳しくは知らないが、この定義付けをしているのは作者に始まり、コレクター、批評家、ギャラリーやオークション等のバイヤー、美術館関係者等の美術界・芸術界であり、とりわけアートの発祥地である西洋文化がその歴史の流れを過去から現代まで主導している様である。 稀に逸脱しているつもりはなくともアートとして更新していると美術界に定義付けされてしまいアートという円環に取り込まれる(自覚していない又はアーティストでない)作者またはあるアートとは別の文化や分野や業界等もある。違う意味で何でもありとも言えなくもない。