絵が巧いに越した事は無いけれどいわゆる商業美術の分野は別として芸術やアートの分野においては必ずしも絵の巧さが必要な条件では無かったりする。
美術史を紐解けば西洋では18世紀の精密に対象を写す写真の発明により変革の無い長い歴史の中で飽和し停滞し切っていた超絶技巧による写実主義の絵画から絵描き達を追放または解放した。この事により社会的な職業として絵を巧く対象に似せて描く役割はカメラに取って代わられた。そして絵の元々の起源は何かの写しではなく本来持つべき役割に立ち返るという新たなる命題を背負いつつ、芸術やアートとしての絵は精密に何かを写し取り描く事よりも、どの様にどんな技法でどの様な主義主張や意図で描くかに重きが置かれ今の現代までアップデートされ続けて今もされている。つまり何に感動し驚き賞賛し美しいと思うのかという価値観を新たに創りだす事が芸術やアートの意義となった。絵描きが自らの手で描く意味は未だ失われてはいないが絵を描く役割を取って代わられる危機は去っておらずパソコンやスマホやAI等の機械による侵食は続いている。ただ巧くだけ描くなら機械にも出来てしまい、その精度は時代と共に上がっている。
芸術やアートの新たな意義を考えた時には芸術やアートは単なる絵描きの腕自慢ではなく(作り手自身を含めた)人々を感動に導く使命を持っていると考えられる。もちろん近年起こったスーパーリアリズムという新写実主義運動が写実絵画に新たな地平を開いた様に絵の巧さはあっても良いのだけど、絵で何をする何をしたいのかという目的意識が無くただ技巧のみに溺れると、例えばかつてiPhoneが比較的既製にある技術の組み合わせで作られた物であったもののそのデザインや使用方法をユーザー自身の(意識していない無意識下の)要望や開発者の創りたいとする物への物作りの想いに対し率直に向き合い寄り添い新たなデバイスの価値観を創造したのとは逆にハイスペックにハイスペックを重ね只々人々のニーズを無視したオーバースペックな製品を作ってユーザーから何の共感も得られない機械製品の様な末路を辿るのではないだろうか。
もちろん求める作品に足る技術や見識等の修練は必要ではあるとしても。