現代アートは難しい又は分からないという言葉はよく聞く話である。
それは何故この作品が美しいのか、何故高い値がつけられてるのか、何故評価されてるのか、の様な意味なのだろう。
では逆に、何をするとアートが現代アートというものになるのだろうか。それはいつの頃からか(印象派以降から20世紀頃だろうが)誰も作った事のない作品を作る事、誰も気付かなかった視点の表現をする事、誰も踏み込まなかったタブーを犯した革命を起こす事、今までにない新しい美術論理を確立する、等をするといわゆる古典的な芸術を脱して現代アートになるようになった。昔の古典的技法で昔ながらの表現思想で風景なり人物なり静物なりを描いてもそれは現代アートとは呼ばれないのは分かって頂けるとは思う(鑑賞・批評する側の新しい見方で発見される事により新しい芸術になる事もあるが)。つまり今までのお約束なり常識を新しい発見や気付きや別視点で破ってこそ、破壊してこそ、突き抜けてこそなのだろう。
そうなると、新しく生まれた作品だけを見せられてもその作品が今までの常識(とされていた以前の作品又は主義思想)の何を脱して生まれたのかという経緯が分からなければ何が現代アートとしてすごいのかは分からない。例えるなら大長編の物語をクライマックスだけ見せられるのと近い様な気がする。(もちろんその作品自体の造形の美しさという要素だけで評価出来るかもしれないが、単に風景が美しい宝石や骨董が美しいという様な一般的な審美眼で美しいと言ってもそれは既存の美であって、以前の美的感覚を新しい価値観をもって更新させる新しい美しさというものであってこそコンテンポラリーアートなのではなかろうか)
アート作品の生まれた経緯・歴史の連続性はいわゆる文脈(コンテキスト)と呼ばれる。文脈つまりその作品に至るまでの連綿と歴史に続く過去の作品群の(過去への否定の)連続性の歴史を知らないとその現代アートと呼ばれる作品の何を成し得たのか理解出来ない事が多い。
その点については作者が意識的に文脈を理解して作っている事もあるだろうし、時代の潮流と共に無意識的に作者の感性が作っている事もあるのだろう。そしてもちろん文脈の知識を必要とせず感覚に訴えるタイプの現代アートを作る作者もいるだろう(このタイプの作品が一番分かりやすいのだろう、がしかしその意図や文脈を理解していればより理解も深まるのだろう)。
以上が現代アートが難しい・分かりにくいという理由の一端が上記の点にあるのではないだろうかと考えた次第である。