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本質的な事を描きたい理由

何千年の時を経ても未来の人たちの心に共鳴を促す絵を描く為に、である。

大きい話だが、意識的にしろ無意識的にしろ全てのピースはそこを目指すと考える。さまざまな要素による感覚の共鳴の連鎖が人間の歴史を紡いでいると考える。

絵画は音楽や映画に比べ、最も静的なメディアだ。だからこそできる事もある。決してこちらから行く能動性は少ないが静かに鑑賞者の感覚の受信を待ち、問いとも言えるメッセージを投げ、鑑賞者の感覚に波紋を起こす。その時に絵と鑑賞者の間に一種の通信状態のような共鳴が起こる。やりとりされるメッセージは作品と鑑賞者により変わる。その静的なやりとりを最もできるメディアだと信じている。

絵においても文においても、
本質を何かと定義するかは難しい。
なぜ?なぜそれは在るのか?そうなのか?等の様に深く考える時の感覚が受信している内容だ、と自分は考える。
たとえばモチーフを見、絵を描く時に感じる。

現代においては流行という時代性は共通項であり理解そして共鳴をそれほど邪魔しない。時を経れば時代性は非共通の物となり作品にまとわりつく。核となる本質が少なければ少ないほど本来の在るべき姿が見えなくなる。しかし本質があればあるほど、逆に他と差が出て輝き、上辺ではなく流行ではない方の本来の時代性が持つ本質も作品の本質と共に浮き出る。
時代とともに何か違うな、となる物がある。上辺の時代性や流行だけならそうなる。本質という核も内部に宿しているなら、時代とともに味を増すのだろう。
そのとき必要なのは、時代性や流行を取り入れるにしても意識的でありかつ主軸となる明確な目的やコンセプトを持つという主体性だ。

時代の流行の中にあっても変わらぬ想い、というものがある。そういう感覚に時代も空間も貫く存在の中心性を感じる。
堆積物により覆われた熱く輝く原石のごとく。
そのためには目を曇らせないように修練が必要だ。