dorayakiBlog

ものの見方

自分はこのサイトにおいて、ものの見方をテーマにして書いていきたいと考えている。

とはいうものの自然体にゆるく幅広く、ものを見ていきたいですが。

もちろん前提として絵を描く技術の技量は必要なのだが、絵を描く上で、ものの見方こそが最終的には絵描きには必須だと考えている。
そこにこそ、その人の性質つまり個性が表れる。ものや事をどのように解釈するかにだ。ひいては人間らしさもそこにある。
それは機械ではなく人間にこそ出来る事、と写真や車などの機械技術による恩恵をもたらした産業革命以来ずっと言われてきた。
しかしその頃にも言われた機械に取って代わられるという事のレベルは今となっては可愛いもので、そろそろ本格的に取って代わられる兆候がちらほら見られてきている。なんだかんだで人間主体であったものの徐々に逆に支配つまり使われはじめている、今はそこまで露骨なまでに表面化してないが。様々な業務の機械によるオートメーション化など。インターネット技術が時間や空間を超越し始めている事が産業革命の何十倍も拍車を掛け始めている。

となってくると人や動植物らとの生命や感情に関わる事くらいしか人間が関われる事がなくなる可能性は高い。医療やコミュニケーションはもちろん食やインフラ等。
そうなるとそれ以外は、閃きと、もしくは洞察による判断、肉体を使う、の三つの活動しかない様に考えてしまう。

計算や記憶などそれらの処理はもはや遥かに機械に凌駕されている。0.1秒で100万件の処理など人には無理だ。絵においても画像処理ソフトで手描きのテクスチャ等も真に迫る程に再現されて久しい。しかし処理は無理でも閃きによる発明は、その時間においても内容においても機械と同じかそれ以上のレベルを生物は持っている。この点を超える時に、人の他にロボットという種族が地球上に表れるのだろう。とはいえAIにない主観という機関を持っているという事も強い。主観をロボットが持ち得たならそれは人と呼べるかもしれない。などの妄想は尽きない。
その人が持つ、もしくは人となり得る主観や感覚こそが左脳的な人工知能に勝り、かつ豊かな資産であり武器となる能力と考える。右脳の閃きは光の速度なのだろうか。少なくとも音速か。時間の問題も差し置いて、その質の豊かさにも着目すべきだろう。 今のところは。
人間に見分けがつかないほどランダムに要素を何パターンも組合せてビッグデータ等の情報収集からトレンドや人の嗜好の流行や今昔の時代性や習慣などによるアルゴリズムが、世の流行や商品の企画を作らないとは限らない。ならばそれを超えるならば、いわゆるぶっ飛んでる発想つまり飛躍が必要なのだろう。コンピュータですら出し得ない、くだらなくも愚かな発想を。非合理な。意外とおバカなものや事を人は愛する。そこにもヒントはありそうだ。

デッサンは物の見方だ、と言った画家もいる。それは事実を記録する他に、その事実に足すか引くか変えないか、それとも変質させるか等の必要性を、その人の見方により独自の分析そして解釈をする事だと考えている。それこそが絵描きを絵に向かわせる動機のひとつのように考える。

ものや事や人や生命に対しての向かい方や見方は、絵でなくとも様々な仕事や生活においても、生きる事を定義し生きる意義を生み出す為に必要だ。

絵描きはまずは手で描く。それ以前に眼で描く。そしてさらにそれ以前に認識と感覚で描く。そしてそれは頭脳と心による主観と客観、と抽象的に言って悪ければそれは洞察と閃きに帰する。

自分は絵を描く者としての見方をもって、絵を描いてこれからを生きていきたい。