というのは、このインターネット時代のWeb上のブログやWebページにつづられた文章が資産になるという事である。
これまでは出版社が見出した著述者の文章のみが本という販売される紙媒体で社会や国の文化的かつ知的資産として活用されてきた。
読者はお金を払い知的資産を得る。著者や販売元はその製作により貨幣的資産を得る。
近年はWebによる発信受信の情報世界の拡大に伴い広く一般化され、本来は貨幣的資産になり得た出版物の情報はデフレを起こし、Web上で情報のFREEつまり共有化の局面に流れ込む状況となり始めて久しい。
(紙面からWebへまるごと転載した違法なものは除くにしても。)
しかし近年は、縦の上意下達のシステムから、横のWorld Wide Webのネットワークのシステムへと次元が変わった。せまく高い縦の次元から広大な横の次元へ。それはさしづめ井戸の中で上から落ちてくる食糧を待っていた生活から這い出て、広大な海に欲する物を探しに旅に出るかのようだ。安全と危険、束縛と自由という両面はあるが、井の中の蛙は大海に出るのだろうか。物理的な世界は未だそこまでは行かずとも、情報の世界においてそこを先んじたのは大きな一歩だと考える。
当然Web上の情報は玉石混交であり、検索情報の中からさらにその検索者自身の知見で精査するという更なる検索をする必要はある。とはいえ前時代の出版物における良くいえば選別、悪く言えば検閲のフィルター、が除去され情報の品質の良し悪しの幅は広がった。数こそ少ないが貴重な情報。そのような本や前時代の環境では知り得なかった情報が簡単に手に入るようになった。国家や企業レベルの機密情報は無理としても。
そして多いかもしれないが、膨大な愚かでくだらなく低俗な情報。面白いが無駄な暇つぶしほどの情報。それらは読む人によりそれぞれ違ってくる。その意味では多様性も増えた。
Web以前の時代は一般人が文章を書いて公的に公表される事は無いに等しかった。紙面に関わる業務に就いている人くらいだ。他にあるとすれば新聞や雑誌やラジオへの投稿くらいだろう。それとてクローズドな空間で選別され作られ、その後オープンな場にやっとリリースされる。一般人が日記のような個人的な文章でなく外に向けた作文や手紙を書いたとしても、事例が全く無いわけではないが、誰が取り上げただろうか。ごく稀に時代を経て再発見される事はある。死後に評価を得たゴッホが書いた手紙や、百年後に再発見された吉田兼好の「徒然草」のように。ゴッホの手紙は完全に弟や仲間とのプライベートなやりとりと彼の独白に近い語りが主な内容であり、徒然草も徒然なるままにとある様に随筆つまり日記であり商目的で書いたとは思えない。ゴッホの手紙は死後に弟の夫人のヨハンナ夫人の尽力によって絵と共に広められ一冊の書簡集となった。徒然草も百年後の室町時代の僧や江戸時代の歌人らの注目により庶民に読まれるようになったと言われる。本人の実力もさる事ながらこういうケースはごく稀だ。後援者となる人たちの後押しがあったという点も重要である。有名になったから現在まで読まれてる面もある。しかし上記の二人は当時は有名でなく一般人に近かった。ひとりは無名の画家、ひとりは地位と財産は少々あるが市井の世を捨てた歌人または随筆家。徐々に後援者による後押しや再発見で知られていったにせよ、当時は文章などの発表物を公表する事は当時の販売網や情報のインフラ等の少なさを考えれば簡単ではなかったと推測するのは難しくない、時代が古くなればなるほど。とはいえ悲しい事に、それは今もさほど大きく変わらない面もある気がするが。
まだ知られていない古今の文章や消えてしまった文章が膨大にあると推測するのは難しくない。非常に惜しい。絵や音楽なども近い状況にあると感じる。
Webというネットワーク上にサイトが在り、仮に現在Web上の最大のインフラになり得ているGoogle検索サービスが無くなったとしてもWebのインフラという玉座をめぐって多くのサービスが立ち上がるのだろう。それらのサービスの中に日本発かあるかどうかは予測がつかないが、しだいにそれらの多くのサービスが淘汰され世界中のWebインフラをとりまとめる一つのサービスへと収束されるのだろう。 そうなった時に検索という形をとるかは分からないが、htmlという文書構造で構成されるWebサイトをその新サービスがどのように広大なWeb情報から選別し振り分けるかを考えると、やはり今の技術の段階ではhtmlによる文書構造の内容をもとに判断するしかないと考える。htmlはWebを構成するサイトの骨格であるのでそこは変わらないと考える。Webページはプログラムを除けば、画像、文章などのテキスト、動画で主に構成される。何かを検索で調べる時に画像検索や動画検索は既にあり、いずれ一般化する可能性はあるが、人類の間において最も共有性の高い「言語」というもので検索のためのWebページの選別や振り分けが行われる可能性が高いのは、新サービスに変わろうとも今のGoogle検索だろうと変わる事はないと考える。整理されたデータのインフラとして整備されたからこそ今の便利さがあるので。スマートフォンのカメラで撮った写真で検索するGoogleアプリのサービスもあるが、個人的な感想ではキーワード検索のほうがまだまだピンポイントに検索できる。
検索結果のページにより良く表示される為の検索エンジンへの最適化を目的としたSEO(search engine optimization)の要素の一つに、文章中に含まれるキーワードから検索されるという要素がある。その部分はコンテンツの作成による作者が直接SEOの要素の決定に関われる数少ない部分である。他では外部からのリンクされる外的要因や、コードの修正による最適化や、ページ構成の使いやすさやアクセスの速度などの閲覧時には重要な要素であり副次的に効果はあるが検索時には直接は効果のあまりないユーザビリティの改善くらいだ。あくまで検索するユーザー側にイニシアティブがあり、コンテンツ提供側にはない。画像や動画も結局はhtmlのコード内で文字によってタイトルをつける事で検索エンジンに判断させている。やはり文字つまり文章の内容が重要になってくる。
近年インフラになりつつあるSNS(ソーシャルネットワークキングサービス)がオープンなWebに近くて遠い場所に位置する。ログインが必要なSNSなどの、オープンな外部のWebから閉じたクローズドな場においてはそこにおけるメンバー同士の関係性が資産になる。広大なWeb世界における小国や都市や町のようなイメージを持っている、関所があるような。
個人的には、SNSも便利だが閉じた空間より開けたWebに新しい可能性の価値を感じている。
安全だが囲われたプラットフォームのiOSやAndroidなどのアプリ開発よりも、危険だが広大な開けたWebサイトやWebアプリの開発に興味があるのもそのせいかもしれない。
オープンなWebの場ではサイトへの被リンクも検索時上意に表示される重要な要素だが、キーワードでの検索における対象となる文章が重要であり、その為のキーワードのまとまりである文章群が資産になると考える。しかしそのときもやはり、あくまでユーザー側にイニシアティブがあるが、文字が言葉がユーザーと提供側の関係をつなぐ。その関係は前時代の出版物と異なり、発信者と受信者の両者の関係は入れ替わり得る。別のシーンではユーザーが発信者にもなり、コンテンツ提供者が受信者にもなり得る。
もちろん出版物やWebを問わず情報の増加による情報の貨幣的価値の低下はある。しかし広大なWeb上に漂泊する文章のサイトを置けるようになった事で、SNSと違い(負の方向の)人間関係に縛られない無作為で純粋な繋がりという資産を持てるようになった、と考える。個人情報や他セキュリティの安全性を考慮しなければいけないが。
直接的な金融資産にならないものの、置いておくだけでWeb上を動き回るクローラーがサイトを探しに来てくれて検索エンジンにインデックスつまり登録され、ユーザーのキーワード検索による情報発信をしてくれる。ある意味待ちの姿勢になり、後の先を取る攻め方になるが。しかしそれは家賃収入や預金の利息のように自動的に働かせておける。書く時間はかかるが、書き込む回数で言えば、手をかける必要性はSNSよりは少ない。もちろん扱い次第では資産にもなるし負債にもなる。しかし文章の更新を続ければ確実に積み上がる。株や投資の確立に比べれば損はほとんど無く、割に合う。自己の成長という意味においても。Web上の情報をマッピングする検索エンジンもしくはこれから開発されるかもしれない新システムの、World Wide Webという地図の上で積み上げられる。この点はSNSの外部から閲覧できず流れ消えてしまうタイムラインにはない長所になる。
お金が欲しければ別だが、
損得は抜きに、自分の考えや知識を整理し言葉にする事により鮮明になる。知識を共有し主に担当する自分の中のもう一人の自分とひとつに融合し真の自分が完成される。技術の反復を重ねる事によって無限に技が深くなるように知識や技術を深化させる事ができる。インターネットに向かって書く事は独り言に近いが、とはいえパブリックでもあるので、大きな不特定多数の誰かに向かってという意味で、人に教えると知識や技術が深まる事をしているのと近い。教えるような状況にない場合や、学問のように教える体系を持たないが良い内容だが語る場や相手がいなかったりという人は多い。その時は文章としてWeb上にリリースしておける環境ができた事は諸々のマイナス面を差し引いても、人類にとって意味のある事だ。人類の知識の共有の場として活用されるなら人間はまたひとつそしてこれからも賢くなれるのだろう。ちゃんと活用されるならば。そしてよしんばそれを表明、発表する事により人の役に立ったりできればそれ以上に嬉しい事はない。それだけでも価値がある。
それもひとつのコミュニケーションである。そして社会に働きかける行動のひとつとして情報発信の機関を個人的に持てる事自体が資産である。そしてそれは使う人次第で土地や金融資産の運用よりも多様な変化をする。それはきっと何か新しい未だ見ぬ価値を誘発する可能性を秘めている。全ての人にとって資産となる発信受信が行われる事を祈りたい。
そういった意味で資産なんてケチな物でなく、今までにない面白いアクションを起こす事のできる未知の可能性に価値を感じている。
内容を吟味しながら発信受信する必要はあるが、
編集者や放送作家くらいにしか与えられなかった、その独占されていたチャンスが世界中に解放され、ばら撒かれた事にも胸が躍る。
そしてそのチャンスである技術を仮想空間で終わらせずリアルの現実で活かせるようにしたいと考えている。
※ 自分は岩波文庫の「ゴッホの手紙」を読んだ。それはゴッホの弟のテオと画家仲間のベルナールとの手紙のやり取りのゴッホ側の手紙の内容を収録したものだ。ゴッホとテオの両者の手紙を収録した書籍も出版されているのでそちらも読んでみたい。詩的な、色やモデルや自然などに対する彼の見方と言い回しが、文章上で言葉を用いて絵を描いているかのようで素敵だ。
このような出版物があるので本を読む事もやめられない。であるので出版も応援したくもある。
ゴッホのように、しかし彼とは違う、ものの見方で絵も文も描けたら素敵だと考える。