絵を描く上でパレットと言う時には二通りの意味がある。
ひとつは物としてのパレットを指す。チューブから出した絵具や練った絵具を置く為の木製もしくはプラスチック製の板を指す。ガラス製もあったりする。
もうひとつはパレットに置く絵具の色の構成を指す。どんな色をいくつパレット上に配するかである。そのパレットから派生する実際の画中に使われる色彩構成の事も指す。
ここではどの色を用意するか、つまりパレット上の絵具の構成のほうを考える。
決まりは特に無く、何を使っても良い。金銀銅などのメタルカラーや蛍光色の絵具で構成しても何ら問題はない。蛍光色は耐光性に難ありだが。もう少し現実的にいえば、白と黒だけでもその人の表現に合致すれば構わない。
砂利や木くずをメディウムで混ぜて作った絵具や、新聞紙や色紙のコラージュでも良い。
現代美術的には、
実際にはキャンバスや紙に何も塗られてなくても、ここには色がある、というコンセプトによるバーチャルな絵具というのもある。
いたって自由であって各人の研究の結果、考え方次第で十人十色のパレットが存在して良いと考える。
(変色や剥離を起こす絵具同士の構成にはしないほうが良いが。)
とは言いつつも伝統的な構成はある。
それは使いやすく理にかなっている。それは厳格な規律としてあるのではなくそれまでの画家たちの慣習と叡智の結晶だと考える。
伝統的なパレットの構成は主に、描画対象つまりモチーフの再現描写のために使われる要素の割合が多い。ルネサンスから19世紀までの絵画のメインであった歴史画や宗教画も宗教的イメージや歴史というストーリーの構成画とも言えるが、ルネサンスの要素のひとつである人間性の解放という中世における絵の描写の視点である神の目の視点ではなく、もちろんテーマは宗教や歴史ではあるものの、人間の目で描写された宗教画や歴史画内の個々のモチーフや背景はリアルな描写により再現される。その点で中世の絵とは異なる。
(それまでは線による平面的描写であり、ルネサンス期に人の視点の再現のために遠近法などの描写法が発明され、同時期に霞んだような朦朧体を可能にする油絵具の発達も重なった)
その為のパレットはルネサンスの時代に今の原形がほぼ完成される。そして数百年後に印象派によって新たにアップデートされる。伝統的なパレット構成が再現の要素を多く持つのは、今日に至るまで再現のために使われた歴史の長さを持つ事に起因する。
再現の要素の他には、再現の要素と独立もし融合もする、「表現」の要素と「装飾」の要素も、伝統的なパレットの構成において使われてきた歴史もある。とはいえ絵画においては再現を主軸に使われてきた。
であるからそれは再現を主軸とした描き方に最も向いているパレットの構成だと考える。古典の「再現」から始まり、新しい時代においては再現から「実現」の形をとるようになったと考える。「再現」は再現がゴールであり、全ての絵描きが同じ地点に到達する。「実現」は再現がスタート地点となり絵描きにより複数のゴール地点であるリアリズムに到達すると考える。他の、表現や装飾の要素を主軸としても使えるが、思想の表現が主な現代美術を見ると絵具では収めきれなくなっている。もちろん絵具でも可能であるが、ある種の思想に適した手段もあるという話と考える。アートや美は決まった実体つまり定義を持たず絶えず変化し移動する、アメーバのような生命体かまたは動作する機械装置の機関のようなものだ。そして絶えず新しいアートを探し移動し続けている。自分の究めたい事はあくまで絵なので、アートの絵としてでなく一枚絵としての絵という事で絵の本懐を究めていきたい。再現といっても対立こそしないが写真や映像とも違う方向に行くだろう、写真や映像よりも静的なそれに向かって。
伝統的なパレットの構成は、一般的に指導される構成や10〜13色の絵具セットに入っている色とほぼ同じだ。
油絵や水彩という各種の異なる絵具ごとの顔料や、時代によって使用される顔料は一意でない。なので同じ色相の絵具でも、色味や透明性や化学的変化は一様ではないので、固有の顔料名や絵具名を避け基本色名で言えば、
白、赤、黄、緑、緑みの青、紫みの青、紫、黄土色、赤土色、赤茶色、焦茶色、黒
といったところか。
橙色や黄緑が加わる事もある。
西洋の巨匠のパレット構成を文献の中で見かけるが、19世紀以前は鮮やかな色の絵具が少なかったくらいで概ね色の基本構成は変わらない。
上記の10〜13色でほぼ完璧に描画に対応できる。これ以上の色数は何らかの目的でも無い限り増やすメリットはあまりない。まず多過ぎればパレットが狭くなり乗せづらい。そして多くの既成の絵具は複数の顔料の掛け合わせで作られるので、そのもととなる単一の顔料で作られた基本色の絵具を揃えておけば効率も良い。絵ごとに多くの絵具を使い分けるにしても、意図を持った配色をするならば混色による色の掛け合わせのパターンに習熟する必要なので、絵具が多くなれば使い分けが困難になる。10数色の掛け合わせで作れる色のパターン数だけでも多くの色の階調を作れる。数字での10通りという組合せ以上に階調つまりグラデーションという無限の幅があるので、特に増やす必要性はないと考える。
茶系の色と黒はそれらを用いる強い意図が無ければパレットから外しても構わない。黒や茶色には土や鉄や動植物の骨等から作られた顔料の独特の色味は代え難いものがあるのだが。中間色を作る時にも混色に用いれば原色などの鮮やかな色を用いるよりも速やかにかつ独特の色味が作れる。他にも白や黄土色と茶系の色と黒で濃淡のある下描きに用いる事もある。なので無理に外す事はない。
そしてそのパレットは19世紀に印象派によってアップデートされた。
印象派の画家たちが明るい絵を描くために暗い色を減らした。減らしたとは言え、使わなくなったのでなく使いどころと使い方と使う量を変えたのだ。印象主義の教義に従うなら、赤、橙、黄、緑、青、紫からなる光の虹のスペクタクル上の色と白の絵具で描く事になる。光によって発せられる色もしくはその反射の色には、実際には黒や茶その他の概念的な固有の色は無いという考えから、黒や茶色は排除される。
むろん印象主義の教義が印象派の画家たちの中で共有された時期や、それ以降のピサロやモネやシスレーやスーラや新印象派らは終生そのパレットで絵を描いたと思われる。
とはいえ印象主義を共有しその後に脱し独自の道を歩んだルノワールやセザンヌらは光自体には実際には黒という色は無いという考えから、いったんは取り除いた色を再び、光ではない「色」としてそして絵の構成要素のひとつとして魅力のある重要な色である黒や茶をパレットに戻した。
とはいえ印象派そして印象派以降の絵は、それ以前の古典絵画に比べ明るい。それは印象派以前の絵は下描きを明るくはない色の茶や黒などで描く事が多かった為に、明るい場面の絵でも全体的にどこかほのかに沈んだ暗さを持つ絵や、暗い背景でスポットライトを人物や静物などの主役に当てたような絵が多かった。とはいえそれは作業を進める上での効率性も重視した下描きであるので理にかなっている、特に工房で集団で描かれていた時代には。絵のほうが出自は先だが、濃淡の下書きに肉を付けるように彩色していく様は、ワイヤーフレームの3Dモデリングに色やテクスチャを貼り付けるのに似ている。
そしてそのような使い方は減り、全体的には明るい下地の上に、要所で深みを持たせない事により明るく見えるマットな黒や茶を塗るようになった。そして必然的にその量も減った。
最低限、
色のある絵を描くならば白と赤青黄の3原色だけか、それに加えて3原色の二つを混ぜて作れる純色の橙緑紫、
でパレットを構成できる。印象派に習いつつ。
もしも完全な赤青黄の絵具があったなら、それだけでも彩度がやや劣るものの純色は作れるが、青を例に取っても、緑み寄りか紫み寄りに偏っていて完全に中立な青は今はまだない。緑みの青に、赤みの黄を混ぜたなら、黄と青で緑にはなるものの、含む赤と緑の反対色が減法混色により濁ってやや鮮やかさが落ちる。なのでそれを嫌うなら補う三原色の間の色も揃えたほうが良い。
三原色以下の数ではモノトーンに近くなっていく、例えば白と赤もしくは加えて緑のパレットにしてみると。それも独特の色調の絵になるので面白いが。
絵具は物の色と同じく光の表面反射によって色を発する。しかし実際に光が表面反射した物体色を絵具で再現しようとすると、絵具と現実に見える物とでは、光の強さや表現できる色の幅が、絵具の明暗の幅を1:100とすると現実の明暗の幅は1:10000の光の強さかそれ以上の差がある。実際の空間は暗い場所においても光の加法混色により作られ、絵の空間においては明るい場所でも減法混色で作られる。光は混ぜれば明るくなり、絵具は混ぜれば暗くなる為に鮮やかな色においても差がでる。印刷物よりもテレビが明るく鮮やかな事も同じ理由による。
CMYKはRGBになれない。光による加法混色と、色料の減法混色の差による。絵具はどこまで行っても光にはなれない、擬似的になれるにしても。
であるのでその光を、自身のパレットの公式をもってキャンバス上に変換してやる必要がある。自分のスタイルに。色をもって。
印象派以降はパレットの構成は概ね変わらず、現代では絵具にとどまるか、絵具から飛び出す方向性に向かう。
混色以外にも色の重ねや色の配置、時代ごとのパレット構成の持つ意味の変化などを用いると混色以上に様々な色が出せるので、絵具にはそして色には未だ可能性があると考える。
なので自分は、目的やコンセプトをもってパレットの配色を構成したいと考える。