「何を言ったか」よりも、「誰が言ったか」が影響力のある時代と昨今言われている。
誰が言ったかについては、何を言っても悪く受け取られる方向性と良く受け取られる二つの方向性がある。つまり説得力の有るか無いかの事だと見る。
今の社会で重要視されているのは説得力の有る方向性だ。
つまりキーパーソンが言う、もしくは言わせるほうが影響の範囲、威力が大きい。
もちろんその発言主の人徳や実力に起因するのは言うまでも無いのだが。それが極まると最終的には(ある種の)神になる。神のお告げに間違いはない、のような。本当にいるなら神様はそうなのかなとも思うが。
テレビの時代も「誰が言った」かの力は凄かったがインターネットの時代に入って有名無名を問わず個人レベルの発信が可能になり、発信の敷居が急に無くなったのでその速度は増すばかりだ。
しかし誰が言ったかは、はてなの茶碗という落語もあるくらいなのでそれほど目新しい事ではないのだろう。はてなの茶碗という話は、茶金さんという目利きが安物の茶碗にひびも無いのに水がもれているのを不思議に思い、はてな?と首をかしげていたのをその茶碗の持ち主である店の主人がこの茶碗はかなりの価値があると勘違いをしてしまう話である。まだこの話は続きがあるので興味のある方は読んでみて下さい。
とはいえ、この手の話は古代エジプトの石板に刻まれていた「今時の若者は…」と同じくらい古くからあったのではないかと考える。
もちろんプロや専門家、経験者であればその説得力は増す。そしてその言説は正しい。しかし一見すると、中立の立場に見える専門家の言説にもその業界内での立場や主義主張や考え方の差が表れる。各ポジションからの見方により、ものの見方はその核心から微妙にズレる。そのとき専門家の言説はもちろん正しいが、そのポジションから見た時の見えない部分が生じるというおまけ付きになる。プロでも、プロだからこそイズム(主義)が邪魔する事もある。イズムを確立しつつ、裏も見通すような中立的視点を鳥瞰図で見るように客観的に、心の隅にでも保てるならその人は一流のプロとしての見識の持っていると考える。とはいえ、ズレがなく中立を目指す事が大切なのではなく、思いっきりズレても中立の見方を心のどこかに持つ事が大切だ。平均になるのでなく、大きく揺り動いてもしっかりとした支点を持つような中庸になる事が大切だ。そのズレこそがその人らしさであり、そのズレから生まれるものが面白い。
専門家の意見は貴重なので感謝して参考にさせて頂きつつ、とはいえ誰が言ったかばかりに頼っていては、自分の目で判断する力が育たないので、誰が言ったかのフィルターは取り除いて考えたい。つまり何を言ったかを自身で咀嚼して判断する。そのために広く学ぶ必要があると考える。もしくはせめて自分の興味ある分野についてだけでも深く。それも時間に限りがあるので、上記のポジションによるズレが生じる事だけでも頭に入れておきたい。
意識してだと堅苦しいので、自然体でそうなれたら良いのだが。
誰が言ったかは、そのキーパーソンの力が偉大になるほど、究極のところ何を言っても許されてしまう状況になりがちで、逆にそれは歯応えがなくむなしいのかなと想像してしまう。
御意見番や巨匠などがそうだろう。なので自身の誤りを見直す自己研鑽が絶えず必要なのだろうと考える。
本人も周りもそのネームバリューに依存しすぎると革新からは遠ざかる。やはり内容で勝負する挑戦する力を育てたい。
そんな地位やポジションにはならないと思うが、そうなってしまうときっと暖簾に腕押し状態で歯応えもなくつまらないと個人的には思うので、そうならないように気を付けながら、かつそこから逃亡しながら、やはり何を言ったかにこだわりたいと考える。
そして異分子やマイノリティ、ひいてはイノベーターとなるような。
そして隠れた真実を見る為に。
とはいえ、一般的に人間は(もちろん自分も)社会的動物として権威には弱い面もある。そしてそれは考えなくて楽、もしくは効率が良いからだという面もある。これはもはや人間の性質なので完全に拒否できないので、思考停止になってしまうか、効率を上げられるかを見極めてこの性質を受け入れる必要がある。だからそのときは逆に権威に対して無条件にハハーッとひれ伏し頭を下げる前にいったん疑問を持ってみる習慣を持ちたい。それは何にでも反対するのでなく自身の中で精査してみるという事である。
立派な事を書いては見たが、一生を費やしても難しいと考える。
その域を目指す意味で、自戒をこめてこのテーマを考えていきたい。