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続「バルテュス 猫とアトリエ」を読んで
技法面で気になった部分について

前回に続き、
この著書の中で特に二点、
同じ絵を描く者として
(しかし格は神と下級悪魔くらい違うのだが)、
深く気になり、かつ共鳴した文章があり、

ひとつ目に技法的な部分として、

「1950年代から、油絵であっても光沢のない、フレスコの壁画に近い質感を求めておりました。」
(「バルテュス 猫とアトリエ」P130 フレスコ画の質感を目指して より引用)

『私が「絵を描きたい」と申しましたとき、バルテュスは「日本人の淡白を好む資質には、油彩は向いていない」と、グワッシュや岩絵の具を使うことをすすめました。』
(「バルテュス 猫とアトリエ」P137 バルテュスと日本 より引用)

ルネサンス等の西洋美術の他、
東洋の美術にも造詣の深かったバルテュス氏は、東洋の特に日本の絵にも理解が深かったようで、異なる文化圏にありながらも、日本の絵の性質を見抜いていたように思える。

文中の「淡白な」という一言が日本人の絵に対する資質をよく表している。

古来から日本の絵は材質的には薄い平塗りの比較的フラットな絵が続いてきたので、日本人のDNAが絵をそうさせたのか、絵が日本人のDNAをそのように形成したのかは分からないが、
「淡白」な、材質に対する感覚、つまりそのようなマチエールへの感覚を日本人の多くは持ちあわせていると考える。
現在でも、激しいコントラストで立体感のある3DCGや重厚な厚塗りのぎらぎらした油絵よりも、どちらかと言うと、2Dの映像や絵のコンテンツ (もしくは同じ3DCGでも2D寄りにデフォルメされた映像や絵のコンテンツ) やさっぱりしたフラットなイラスト画などのほうが多く好まれているように思える、単純に市場での数量から観るに。
もちろんそうでない資質の日本人も多数いるのも事実だが。
淡白の反対は重厚、濃厚だろうか。
とはいえ、絵の内容自体は淡白ともいえない荒々しい絵もあるものの。

ルネサンス以前のフレスコ画にも、絵とはもともと平面であるという画家モーリス・ドニの言葉のごとく、二次元の平たい面または次元に展開するという絵の根底に流れる世界共通の原理を明確に知っていて、フレスコ画の質感を求める事で試みていたのでは、と個人的には考える。
三次元を二次元に展開するという意味では、油絵具はその真逆の三次元を擬似三次元に再現する事で開発・発展した絵具だからこそ、氏は立ち返る事を試みたのではないかと。

二つ目に絵のあり方、または本来あるべき芸術論として、

「芸術家は個性ばかりを打ち出して、絵画を自己表現の手段とした。偉大な絵画は普遍性を備えてなければならないのに。……私は絵画に失われた普遍性と無名性を取り戻したいのだ」
(「バルテュス 猫とアトリエ」P128 バルテュスという画家 より引用 )

近現代では何をしても、特に奇をてらった事をすると、芸術だと捉えられるとも嘆いていたらしい。
アートに感じる違和感はその辺にあるのかもしれない、真のアートは別としても。
ただ絵というものは、元々は自身を持たず、世界の全てを写すその無名性にこそ自身を永遠たらしめる普遍性を宿している、という事は間違いないと考える。
氏はその本質を見抜き、かつ嘆き、そして独自の絵の道を進まれたのかと、本書からは読み取れた。

日本では氏の絵は、少女像などにエロティックな文脈で捉えられる事もあるが、個人的には氏の視線には人間に対する優しさや愛情などの信頼を感じる。

氏の貫いた絵画の信念に思いを馳せ、その信念の核または芯を考えてみたい。