dorayakiBlog

ニュースサイト断ち

最近はなるべく、ニュースサイトを読む事をやめている。
(SNSも以下で挙げる理由と似た性質をどことなく持つ気がする。ニュースがSNS内で共有されていると合わせ技でさらに。)

Webを漂っていると面白いので、つい読んでしまうのだけど。

あくまで所感ではあるが
その理由としては、

・自分には関係がほとんど無い事ばかりである事、正確に言えば、自身の生活や仕事にも遠まきには関係はあるのだけれど自分ではどうしようもない事ばかりである事。
(政治や経済など天下国家の事は、見聞を広めたりその受ける影響を知っておく為に、投票の情報として、ついでに雀の涙ほどの対策を練る為に、世界の大きな動きにも興味はある、などなど近況を少しは知っておく必要があるにしても。
しかしそれ以前にもっと身近にある情報を大切にしたい。)

・SNSと似ていて、意味も無くついついチェックしてしまうのが日常の癖になってしまっている事。

の二つが理由としては強い。

そして、

・サイトが乱立していて興味が広がるにつれて読み切れない事。
(読む量やサイトの数に制限をかければ良いだけなのだけど。暇なのか、いやいやそんなことも無いのに。)

・インプットがアウトプットをはるかに超えてしまう事、意外とどうでも良いような事ばかりで。
(なかには面白いものや興味深いものもあるし、人生には無駄が大切かもしれないが、あまり役に立った記憶が無い、特に人生の決定打となるような。
それならば絵の描き方や美術史やプログラミングや読書、遊びや生活の情報のインプットを吸収する事に費やしたいと個人的には考える。)

この二つは対策が打てるし、気にしなければ済むことなのだけれど。

加えて、

・新聞と同じで読み比べしないとサイトによっては、趣味嗜好や政治的・経済的な思想や主義主張が偏っている。それがそのコンテンツの味でもあるので、その点においては問題はないのだけど、そういう偏りもある事を意識しておかないと、意識的にではないにしろ、こっそり何らかのイデオロギーに洗脳される。 もちろん読み比べは時間がかかる。

・当たり前なのだが、サイト同士で同じ事件や出来事の記事が重複していたり、掲載されている情報が似通っている事もある。それぞれの出来事への見解はあるにせよ。結果その記事について、いわゆる“はしご”してしまっている事になる。ついでに読み比べも。
概要を知るには分かりやすい。
しかし数多いる個人(専門家もしくは体験した人、または興味ある人の分析)のほうが見方として偏りはあるかもしれないがエキセントリックな見方も有ったりで面白い。
良くも悪くも意見を似通らせる検閲的なフィルターがかかっていない。
(Web検索で閲覧するブロクなどの個人サイトは、メジャーまたはマイナーな話題であってもいろいろな見方があって面白いので、それらは見続ける予定ではあるが。)

この二つの理由については、ニュースとはこういうものだと言えばそうなのだが。

以上が理由であるが、

気になる話題や事件を調べていて、何らかのニュースサイトにたどり着くのなら良いのだけど、ニュースをチェックするためにサイトにアクセスする事が日常になってくると厄介だ。複数になってくるとさらに。
時間も取られ、インプットされる情報も似通ってくる。文字と多少の画像のバーチャルで無機質な非双方向性の。
もちろん自身にとって有益なら問題は無い。

しかし、やはりもっと外界に目を向けて多様な情報を摂取するほうが良い気がする。
自然を眺めているだけでも入ってくる情報は桁違いだ、立体感や音声や匂いそして空気感など挙げればきりが無い。と言いつつスマホでこの文も打っているのだけど。情報の加速・拡大のメリットは実感しつつも。
とはいえ、脳の容量のキャパシティは膨大だが、時間の容量は有限なので。

難しい事ではあるが、
ニュースを読むより、
ニュースになる人になったほうが有益なのだろう。
得る情報や体験などにおいて。
そこまで行かなくとも実感から得る事が重要で。
もちろん良い行いで、ではあるが。

ニュースチェックは一般的な国内外のトピックの概要に留めたい。
私だけかもしれないが、その中毒性には気を付けたいと考える。
専門領域のトピックは深く広くチェックするかもしれないものの。

今回は、些細な事だが自分にとってはニュースサイトもSNSに似た厄介な性質を持つのかな、と考えてしまった次第です。
(有難い事に無料なサイトがほとんどで便利なのだけれど。そして当然、人によっては有益となる事もあるとは知りつつ。)

やはり、
物が道具にも武器にもなり得るように、情報も扱い方次第だと考える。