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ゴッホが売れない画家だったのはなぜか

19世紀のオランダに生まれフランスで活動した後期印象派の画家ヴィンセント・ヴァン・ゴッホは世界的に偉大な画家であると同時に生前に売れなかった画家としても有名である。

美術史からゴッホの生涯を概観してみると、

現代においても世界的に西洋美術史に名を残し当時も生前から前衛芸術家として世に絵が売れていた印象派の画家達(モネやルノワール他)やゴッホと同期の世代の画家として分類される後期印象派の画家達(ゴーギャンやセザンヌ)とは異なり、ゴッホは生前には殆ど美術界や一般から評価されず仕舞いで売れないまま短い37年の人生に自ら幕を閉じたとされる。

しかし亡くなる直前には美術評論家に高く評価されたり作品の一つに値が付いて売れたりと評価の兆しはあった様である。そして兄ヴィンセントを支えてきた画商でもありゴッホの弟でもあるテオもゴッホの死の半年後に病気で亡くなるがテオの妻であるボンゲルを始めとした後援者による活動でゴッホとその絵画は世に知られ評価され始めていく事となる。

ゴッホはその生涯で、学校を中退した16歳から叔父の経営する画廊で画商として働くも芸術観の違いから客や上司や同僚らと揉めて上手くいかず挫折し退職し、他の職を転々としてその後に生きる道を信仰に見つけたゴッホは牧師や伝道師等の道を目指すも牧師になる為の試験勉強の難しさから牧師を諦め、その後に試用で認められた伝道師を務めるも困っている信者の人々への過度な献身を批判され教会の冷めた信仰への想いを知り厳しい現実に打ちのめされ神に仕える道も伝道師の資格剥奪で閉ざされ、ゴッホの信じる神や自然への信仰を絵画芸術の中に自らの芸術観を以て見い出し画家の道を志す事となる。

ゴッホは幼少期から青年期にかけて趣味で描いたデッサンや水彩画に天賦の才の片鱗を見せるほどではあったものの、当時はプロの画家への道のりの登竜門として10代後半頃からエコールデボザール(パリ国立美術学校)の様なアカデミックな美術学校への進学を目指し腕を磨いてサロン(国営の官展)で入選する事に重きが置かれており、当然ゴッホは働き始めていた年齢なので美術学校へは行っておらず(33才の時にごく短期間であるが地方の美術学校にも通ったとある)、画家を志したその最初には縁戚のプロである職業画家に倣うも因習的なアカデミックな技法に満足出来ずに独学で信仰すべき自然や尊敬する過去の巨匠の絵画や共感する先進的な美術思想を持つ同世代の画家たちの絵画を模写したりして美術の潮流を吸収しながら学んでいく事となる。

初めゴッホは偽物でない真の神への信仰心を体現していると彼に思わせた画家ミレーを代表とする農民やその風俗を描いた自然主義の画家に倣っていた。当然ではあるがプロ画家であるミレーの様な技術には及ばず素朴であり武骨で力強くどこかぎこちない真面目さと固さと暗さを伴う宗教感さえも感じられる絵がこの頃のゴッホの絵の特徴に見られる。

その後に故郷のオランダを離れ、画商としてフランスのパリで働いていた弟テオとアパートメントで同居する為に引っ越し、芸術の都で当時の最先端を行く現代アートである印象派の絵画を知り学ぶ事となる。現代では古典芸術に位置する印象派であるが当時は過激的な前衛芸術とされる程であり、印象派を吸収したゴッホの絵も元々の暗めの素朴さと固さのある絵に印象派の明るい華やかな色彩と柔らかい雰囲気が加わる事になる。そして当時パリで若手の画家たちから注目を集めていた日本から輸入された浮世絵のその陰影の無い平面的な派手で鮮やかな色彩と西洋の油彩画ではタブー視されていた簡潔な輪郭線による線描による表現にゴッホは強い感銘を受けてその技術を吸収し我々が今よく知るゴッホの独特な絵柄がほぼ完成されたと言える。その後テオの元を去り、パリより色彩に暑い自然を持つプロヴァンス地方のアルルのある南フランスへ移り、仲間の画家ゴーギャンとの共同生活とゴッホ自身の耳切り事件を機とした喧嘩別れを経て、ガシェ医師や精神病院での精神病の治療を受けたりする中で、独自の画境を見い出し晩年の絵柄へと至る。

絵画技術の変遷においても、

パリで印象派絵画との出会いに至った段階で、聖書や歴史の逸話をモチーフにした宗教画や歴史画で無く、印象派や浮世絵が何の取り留めもない普段のスナップショットの様な風景や人物画や静物画等の一般風俗を主題のモチーフとしているので、ゴッホのモチーフも宗教的な雰囲気の絵から写生的な自然主義的な絵に比重が変化していく事となる。

当時の標準的な絵画とされる絵柄としては、聖書や神話や実際の歴史等をモチーフとして丁寧な何層からも成る薄い塗りの重ね塗りの技法で現実や写真の様に忠実に再現して描かれ、色彩自体の持つ美での表現というよりも陰影による明暗を重視したコントラストのある光と闇のドラマチックな薄暗い色調の絵柄が主流でありデフォルメの無い正確な線で捉えたデッサンの絵画が、保守的な画壇や一般の観衆には想定されて受け入れられていた(反対にゴッホの絵は晩年に近付くほど明るく鮮やかになっていき、塗りも薄い塗りの重ね塗りであるよりも厚い塗りで少ない回数で一気に描かれる様になる)。

そして当時の前衛芸術であった印象派ではあるがそれでもまだ自然主義の持つ現実に対する写実性を保っていたものの、浮世絵の強力にデフォルメされた太く黒い輪郭線を用いた線描と平たく明暗を無視した派手な色面を用いた塗りの技術を習得したゴッホの絵は後世の抽象画により近いものになっていき当時の前衛に位置する印象派の画家達にすらも当初は受け入れられなかったくらいでもあるので当然に当時の保守的な画家や一般の人々には受け入れられる絵では無かったのは言うまでも無かった様である(素人目には壁穴を塞ぐのにちょうど良いと思われるくらいの下手な絵と映っていて後にその絵が発掘されたという逸話もあるくらいである)。

しかし芸術の隆盛を極めたルネサンス期以降の長い西洋美術の歴史を経て受け継がれる中でマンネリズムに陥り停滞気味であったアカデミックな絵画技法とその画風はその仕事の一部であった肖像や風景等の再現描写の役目を取って代わられる写真技術の登場や古代の聖書や歴史をモチーフとした絵画から観衆の興味が産業革命に代表される進歩する現代社会へと移り行くのを節目に廃れていき印象派に始まる前衛芸術が目指す絵画にしか出来ない表現による画風が美術潮流の主流のメインストリームになっていき絶えず新しく芸術を目指し追求する革新的な美術運動が推し進められる中で後世の20世紀の画家たちに影響を大きく与えたゴッホと彼の絵画は世界的な評価を得るようになっていった。

ゴッホは自分の信じた道を自身の信念と(芸術や自然や神への)信仰と共に生き、時代にすら追いつけない前衛中の前衛として最先端を行き過ぎて当時の美術の通年や常識から大きく外側(アウトサイド)に逸脱または先頭まで駆け抜けたが故に売れなかったと見られる。